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昔はよくファミコンをやってました。初期の頃のファミコン。今みたいに情報は無いので、攻略法は分からないし、どのゲームが本当に面白いのかなんて分かりませんでした。クソゲーも掴んでいたものです。
しかし、今考えるとあの頃のほうがゲームが面白かったんです。
自分が若かったというのもありますが。
今のゲームはお金も人も手間もかけているのでビジュアルは凝っているし、音声は入っているし、面白いんでしょうけど自分はもう、ついていけません。
なにより、クソゲーと呼ばれるようなソフトがあまりない気がします。
そりゃ、テレビCMを打つわけですから、クソゲー作るわけにも行かないでしょうし。
しかし、昔はなんだか分からないゲームが結構有りました。
そして、そういうクソゲーを許すユーザーも多かったと思いますし、お金をかけないでアイデアだけでゲームを作っているようなやつもありましたし。
[ad#ad]クソゲーがファミコンを面白くしていたのかも?
どんな分野でもそうなんですが、裾野が広くないと頂点は高くならないもの。
ゲームの世界でも、当時で言えばドラクエやFFがエース級だとすれば、その下に膨大なクソゲーがあったわけです。
初めからドラクエやFFが出てきたわけじゃない。
それは、事故とかヒヤリハットの分野で、ハインリッヒの法則というのがあります。
1つの重大事故の背後には29の軽微な事故があり、その背景には300の異常が存在する
というやつですが、こんな感じじゃないかと思うんです。
不動産業界でも「千三つ」といいますが、千件あってまとまるのが3件程度、ということだそうですが、ゲームも千タイトルあって本当に面白いのは3タイトル程度、じゃないかなと。
今は、お金がかかっているのでそうも行かなくて、人気作の続編ばっかり出てきますが、初期は大量のクソゲーの中からいくつかの面白いゲームが出てきていたように思うわけです。
[ad#ad]グソゲーがなくなってファミコンがつまらなくなったのか?
だからといってクソゲーを野放しにしておくと、ファミコンゲームは高いのにつまらないのが多すぎる、と言われてしまうでしょうから、色々規制が入ったみたいな気がします。
今ならネットで情報が飛び交うのでつまらないゲームはすぐに淘汰されるでしょうけど、当時は口コミが最強だったですから、それもやむを得なかったんでしょう。
しかし、それによってゲーム制作はだんだんとやりにくくなるし、ハードの性能も上がってきて誰でも一発当てるとかいうのはできなくなってきた。
昔のファミコンとかそれ以前のゲームであれば、ひとりでプログラムを組んで、画像も、音楽もゲームシステムもできてましたが、今はそんなことはできないわけで。
そうなると、特徴のない一体誰が遊びたいのか分からないゲームができてきたりするわけで。
綺麗にまとまってるから面白いんだけど熱狂しないという感じ。
一人の人が狂ったようなクソゲーを作るから面白かったんじゃないかなと。
クソゲーがなくなって思うこと
いまでも媒体を変えればクソゲーは出てくるとは思います。
しかしユーザーの目が肥えているので、昔のような品質では相手にしてもらえないかなと。
よほどのアイデアやセンスが無いと苦しいように思います。
しかし、なんだか分からないものが大量に出てくるシステムを残しておかないと、その業界はいずれ先細りしてしまう。
これは出版なんかがいい例で、多様化したから売れないとか言う人もいますが、ちょっとそれは違うと思っています。
むしろ、狂ったような人が書いたものが大量に出てくるシステムができていないから、人気のある作家に集中して、結局つまらなくなっているのではないかなと思っています。
著作物が著作権で守られているので訳の分からないものは出てきにくいんですが、パロディが大量に出てくるようでないと出版が活況を呈することはないでしょう。
ゲームもおんなじで、クソゲーが大量に出てくる土壌を残しておかないと、きれいな商業的なやつばかりになると、面白いけどつまらない、という事になってしまう。
大量のどうしようもないやつの上にエースがいるわけで、この裾野の広さを確保することを考えて置かなければ未来はない、そんなふうに思うわけです。
スポーツの競技人口とか、もそういうことだと思うんですよね。
企業もそうです。
どうしようもない社員がいるからリストラといって首を切っていたら、その企業はどんどん衰退していく。
どうしようもない社員が歯車となって働いてくれるからエースが出てくるわけで。
そういうことを許す余裕のある社会でないと発展はないんじゃないかなと思っています。
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